「きせる乗車」にまつわる思い出と善悪の価値観
たぶん無理だよね、定期券とかに記録が残るもんね。
しかし、私が高校生の頃、つまり30年ほど前には、そういうものがあって。
もしかして若い人には分からないのかもしれないので、ざっと説明すると、……あー、面倒くさいので、ウィキペディアか何かを見てください(汗)。
で、とにかく、そういうものがあって、周りのみんなもやっていたし、私も普通に、何らの罪悪感も持たずに日常的にやっていた。
だって、それが可能なシステムになっているんだから、されるほうの自業自得だし、みんながやっているのに自分だけやらなかったら損じゃないか。
──そんな、今にして思えば卑しい根性で、平気な顔で行っていた。
ところが、ある日、それを四つ上の姉に見とがめられて、「“きせる”は泥棒と同じことなんだよ」と言われた。
言われた瞬間は、反発心しか湧いてこなかった。
上記に述べた理由のとおり、みんなやっていることだし、システム的に可能になっているほうが悪いのだし、だから、そんなふうにとがめ立てされる覚えなどない、という気分だった。
でも、反射的に反発心が湧きはしたものの、それ以後、私は二度と、きせる乗車を行うことができなかった。
それまで、悪いという意識が全然なかったものを、「泥棒と同じ」と言われて初めて、それが実は悪いことだったのだと気づかされたのだ。
愚かと言ってしまえばそれまでだが、言われて初めて気づくこと、教えられて初めて知ることは、けっこう多いものだ。
高校生ぐらいになって、いちおう物心もついて、自分ではかなり分別もついてきたつもりでも、実は物事の善悪が全然分かっていなかった。
同様のことは、大人になっても、何歳になっても、あり得ることだ。
(あ……どうしたんだろう、今日の私の、私らしからぬ、この真面目くさった文章は、いったい……ま、いっか)
姉は、特に、クリスチャンだったから(今もだけど)、そういう善悪には人一倍潔癖なところがあった。
何が言いたくてこの文章を書いてきたかといえば、要するに、「やはり教育は大事だ」ということ。
しかも、「宗教的価値観に基づく善悪を教えることは、特に大事だ」ということ。
宗教的価値観を抜きにすれば、件(くだん)のきせる乗車だって、そういうシステム上の欠陥というか不備というか“抜け道”をうまく利用することは、生きていく上で正しいことだ、という議論だって成り立つ。
そう、この世的な論理だけで見れば、そう見えて不思議はない。
そしてそういうことの積み重ねが、実は数多くの不幸の遠因ともなっている、と言えるのではないだろうか。
何がよくて、何が悪いのか。
何が正しくて、何が間違っているのか。
そこには、普遍的な正しさ、普遍的な善悪というものが厳然と存在していて、それは、一人ひとりの人間がそれぞれ勝手な理屈で生きていいわけじゃない、ということを指し示しており、その基準、多くの人が幸福に生きていくために必要な基準、言い換えれば絶対的な価値観を教えてくれるものが、宗教なのではないだろうか。
そんなことを思うわけよ。
ということを言いたいわけよ。
──じゃ、今日もまた午前3時を回ったので、この辺で寝ます。
みなさま、よい夜を。
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あ……何この下手くそな文章……。
落ちるわー。
しかも全然説得力ないしー。
ま、でも、姉には感謝しているのだ。
ずいぶんいろんなことを教わったし助けられもした。
彼女の存在なしには、私はもっと曲がった人生を歩んでいたことだろう。
それでもなお私の人生はずいぶん曲がったが(笑)、まだマシで済んでいるように思う。
私の人生における貴人の一人。
(ちなみにそのほかには、大きくは景山民夫かなー、やっぱし。)
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